束子ダイナミック

変なゲームと優しい物語が好きなブログ

舞台『SaGa THE STAGE 再生の絆』感想と、ゲームキャラクターが「演じられる」ことの意義について

 サガシリーズの舞台化企画「SaGa THE STAGE(以下、サガステ)」の第三弾、『SaGa THE STAGE 再生の絆』の東京公演を観てきた。

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 2018年に上演された前作、『ロマンシング サガ2』原作の『SaGa THE STAGE 七英雄の帰還』にはおっかなびっくり足を運んで、その熱量と殺陣のすばらしさと構成の出来の良さに衝撃を受け、大興奮でTwitterで呟きまくったりしていたのだが

※後日、無事にDL販売や限定無料配信などがされた

 今回観るかは正直かなり迷っていた。

 というのも今回の『再生の絆』の原作は、スマホでサービス中の『ロマンシング サガ リ・ユニバース(以下、ロマサガRS)』のオリジナルストーリー第一部・ポルカ編である。サービス開始から二年くらいはちょくちょく遊んでいたものの、最近は全く触れておらず、しかもこのストーリーというのが若干くせ者で、群像劇的に色々起きながら話があっちこっち飛ぶので、どうも読みにくくてね……大筋のストーリーは悪くないと思うんだけど、どうもね……。自分にとってのロマサガRSは、もっぱらイベントマップをオートでぶん回して数字が増えるのを眺める盆栽であった。そんな自分にこの舞台を観る資格があるんだろうか。

 さらにロマサガRSはサガシリーズのオールスター作品でもあり、つまりこの舞台も理論上どのシリーズのキャラであっても出演することができる。そんなん絶対とっ散らかるでしょ……一体どうなってしまうんです……?

 結論から先に言うと行って良かったです。ポルカ編ってこういう話だったんだ、ロマサガRSってこういうことがしたかったのか、と今回でやっと理解できた感じで、むしろストーリーにピンと来なかった人ほど観るべきものかもしれない。あとロマサガRSであると同時に『七英雄の帰還』のifルート続編的な趣もあったのは前作ファンとしては嬉しかった。

 また、ゲームの世界が生の舞台で表現されること――特にキャラクターが「演じられる」ことの意義という意味で、改めて衝撃と感じ入るものがあったので、後半ではそれらの話をしてみたい。

 ちなみに実写化という観点で話をするにあたって最初に言っておくと、サガシリーズの中できちんとキャラクターボイスが付いているのは、本稿執筆時点では『ロマンシングサガ ミンストレルソング』と『サガ スカーレットグレイス 緋色の野望』のみ*1で、ロマサガRSにも一部システムキャラを除いてボイスが無い。ご存じない方は「令和に個別ボイスの無いキャラガチャゲーなんて存在するのか……?」と思われるかもしれないが、無い。最初の頃はそのうち追加されるかと思っていたが、これで五年やってきているのでたぶん未来永劫、無い。

 ということで実写化はおろか、舞台化で五年越しや二十年越しに初めて声を聞いた、みたいなキャラがごろごろしているのがサガステだ。そんなわけで、他の実写化ものとは感覚が大きく違う可能性があるのはご承知おき願います。

悪役たちの名演怪演、そして……

 とりあえずオープニングアクトだけ見てほしい。

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 まぁあの、とっ散らかってはいたと思うんですよ。三時間の話として見ると、登場キャラクターは明らかに多すぎる……と思う。前半はかなりのダイジェストだし、それでも説明しきれていない部分も多い。リン・ウッド家にまつわる本筋だけでも語るべきことが多すぎるのに、他の話まで入ってくる。

 けど、そんなことはどうでもよくなるくらいに各キャラクターが放つ存在感は格別だった。というかこれだけのキャラクターを揃えて活躍させるためにこういう脚本になっていると思うので、そういう意味ではこれで正解なんだろう。殺陣は今回もさすがのクオリティで、それでキャラが多いものだから目が追いつかないくらいだったのであと三回くらいは観たい。

※以下、途中までややネタバレがあります。

画像は特に関係のないワラスボです

 今回の舞台、特に悪役が輝いていたと思う。女道化師を男性キャストが迫力たっぷりに演じたイゴマールには圧倒されたし、指先まで洗練された立ち振る舞いの中に優しさが滲み出るバルテルミーは素晴らしかった。リアルクイーンたちも終始ノリノリで、恐ろしさと同じくらいの愛嬌があった。一応今回は味方側に属する七英雄やジョー、バートにも悪役的な側面があり、その二面性が魅力になっている。

 そしてその悪役たちと時に向き合い、時に立ち向かうポルカの主人公っぷりといったら実に堂々たるものだった。これだけキャラクターが入り乱れる中できちんとずっと中心にいて、奮い立ったり喜んだり悲しんだりしているさまはもう紛れもなく主人公。オールスターゲームの主人公にありがちな影の薄さにこんな形で血が通うことがあるんだ。逆に言うと 、既に確立されたキャラクターの中にポンと放り込まれた新しいキャラクターが適切な求心力を発揮するには、これくらいの才能が介入していかないと難しいということでもあるのかもしれない。

 そして最後の最後に流れるロマサガRSのタイトル曲「再生の絆〜Re;univerSe〜」。この曲に関しては以前オーケストラコンサートの記事で、

towersea255.hatenablog.com

弱肉強食のスマホゲーム界で好調のまま2.5周年を迎えた本作の語りをああやって締めるのはずるい。そういう意味でこの曲が流れることはある種の祈りでもあり、優しいメロディが沁みる。何度も何度も聴く機会のある曲で、聴くたびに好きになる気がします。

とか言及したのだが、このたび本公演のテーマ曲としての記憶が付加されたことで、またしても泣ける度が一段アップグレードされてしまった。ゲーム音楽と「思い出補正」とは切っても切れない関係にあるが、それにも新しい時代の新しい形があるんだなと思わされる。

 というか、この曲のタイトルが2018年のリリース当初から「再生の絆」だったことを今思い出したよ! 今回は全部この曲に尽きるってこと!?

 「再生」は『ロマンシング サガ3』における「世界の再生」周りの設定を踏まえたものだとは思うけど、「絆」の方はポルカ編のテーマとして最初から据えられてたものだったのだろうか。今では第二部、第三部と別の主人公が活躍しているらしいロマサガRSだが、そのタイトル曲が初代主人公と深い繋がりがあったことがここで分かるのは……熱い!

 何年も運営を続ける中で、開発とユーザーとマルチメディア展開に関わる人々によって、ゲームの内外で積み重ねられた物語がそのキャラクターをヒーローにしていく。やっぱり運営型ゲームならではの伝説の作り方というのがあって、ポルカたちはそれを五年の時を経てやりきったんだなと思わされた。

※ネタバレここまで。

ゲームにとっての「演じる人」の存在

 さて、ここから後半。今回のサガステのように、生身の人の演技が入ることによって作品やキャラクターの見え方がガラッと変わるのがとても面白いなぁと最近思っていて。

 物語やキャラクターにとって、「演じる人」の存在は必須ではない。小説はもとより漫画やゲームだって、「書く(描く)人」と「読む人」がいれば十分に伝わるし成立している。例えばこの、

ヴァジュイールさんにボイスなどはないが、高圧的に楽しそうな声色で言っているんだろうなぁ、なんなら気障な手振りとか付けてるんだろうな、となんとなく想像はできる。ああ、想像したらまたムカついてきたな。こいつ絶対許さない。

 とはいえ普通に作品を楽しんでる読者・プレイヤーの大半は一つ一つの台詞のニュアンスを仔細に想像なんてしないので、そのぶん話運びだったり演出だったりでうまく誘導して感情移入させるのが作家の腕の見せ所と言えるだろう。

 しかし、「そんな声色」や「そんな動き」を実際の人間が演じてみせるとなれば、これは話が変わってくる。人物の一挙手一投足に演じる人の解釈と表現が大いに入ってくるし、そのディテールはほとんどの人のなんとなくの想像を大きく超えてくる(それが仕事なので)。

 仕事の関係で作品にボイスを入れる過程に立ち会ったことがあるが、ボイスの入る前後で表現の主役が絵やテキストから声へと完全に変わって、別物のように生き生きしだしたのをよく覚えている。悪く言えば他がぜんぶ霞んでしまったのである。

 サガシリーズにも非常に分かりやすい例がある。Vitaの『サガ スカーレットグレイス』が同『緋色の野望』としてPS4に移植された際に各キャラにボイスが付いたことで、それまでモブ同然だった仲間たちがそれぞれの個性を獲得して喋りまくるようになった。台詞そのものがかなり面白かったのもあって、ゲーム全体が全く違う印象になったのだ。

 これらの場合は声の演技ということになるが、キャラクターをその身を通して表現せんとする「演じる人の存在」というのは、元々それが無かった作品にとっては衝撃的に大きい。いやこれは本当に凄くて、作品にとって圧倒的な情報量のプラスであり、表現の次元が一つ押し上げられるくらいのインパクトだと思う。だから実写化にしろアニメ化にしろ、原作を壊すとか壊さないとかいうせせこましい懸念を時に吹き飛ばして、全く新しい世界を見せてくれることがある。それが演技の力というものなのかもしれない。

 特にゲームってのは元よりプレイヤーなりAIなりがキャラクターを「演じている」側面があって、ある意味ではゲームキャラクターとは「演じられる」運命にある存在なんですよね。私のエレンとあなたのエレンは似てるようで違うし、私の最終皇帝とあなたの最終皇帝なんてもっと違う訳じゃないですか。だったらサガステの最終皇帝はサガステの最終皇帝なんですよ。そういう視点で見れば、ゲームキャラクターはあらゆる形で演じられていいし、舞台ともなればそれは目の前で繰り広げられる最高のロールプレイなんです。

 無論、「主役はあくまで元の作品であり、せせこましかろうと原作のイメージをなるべく壊さずにやってくれるほうが良い」という向きもあるだろうが、自分としてはどうせならこの次元兵器でビッグバンを起こして新しいものが誕生するところが見たいと思ってしまう。それが、新鮮な驚きを見せてくれることにかけては抜群の信頼を誇るサガシリーズの展開であるならば尚更そうだ。

舞台の側から見たゲーム原作

 逆に舞台の側からゲーム原作ものという題材を見るとどうだろう。自分は結構普通のミュージカルとかも観るんだけども、舞台って潜在的な需要に比してあまりにも「実際に見てみないとよく分からない」ものすぎるんですよね。チケット高いし。みんなが知ってる馴染み深い原作やそのコミュニティからのプッシュという取っ掛かりがあることで、多少でも「ここで何を観れるか分かっている」状態で臨めるのは大きい。心理的なハードルが一つ下がる。

 また、演技がいくら素晴らしくて、いかにキャラクターの内面が表現されていようと、上映時間のその場限りのキャラクターに強い思い入れを持つのは難しいし、頭の中で醸成されるイメージもそれだけ少ない。そこは舞台というもののちょっと勿体ないところだと思う。その点、ゲームキャラクターとの付き合いは往々にして長く、数十時間に及ぶこともある。舞台の外でよく見知ったキャラクターが演じられているとなれば解像度も段違いだし、一つ一つの表現が記憶を刺激するから圧倒的に多くが伝わりやすい。ゲームと舞台の性質の違いは、お互いを補い合うような関係にあると思う。

 もっとも、舞台とは最終的に生モノであり、長い時間をかけて作ったものをパッケージして届けるゲームとはなんというか……「火の入れ方」が全然違うだろうことは予想に難くない。つまり……圧力鍋と炭火焼みたいな違いがあって、ほろほろビーフシチューは炭火じゃ作れない。この例えで伝わってます??

 どんなゲームでも舞台にしたらいいということは多分なくて、素材を渡す側にも受け取る側にも、ビーフシチューの材料でバーベキューをするぞ!という相応の覚悟と熱意が必要で、だから難しいのだとは思うし、それをわざわざやってるんだからサガって凄いよなとも思うのであった。

余談:マルディアスの大地は遠く

 最後に一つ言わせてほしいことがあるのだが、聞いてもらえるか?

 本来サガステ第三弾として上映される予定だったのがコロナのあおりで上演中止になったままの『ロマンシング サガ』原作『約束のマルディアス』は今どうなってるんですかね!?

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 いや分かるんですよ。興行なのだし役者さんのスケジュールもあるだろうから、一度タイミング逃すと難しいのは分かる。分かるが、いつか絶対実現してほしい。

 当ブログはナイトハルト殿下の舞台での活躍をいつまでもお待ちしています。

 

▼『七英雄の帰還』冒頭動画

こちらが前作。とりあえずオープニングアクトだけ見てほしい(二回目)。

youtu.be

*1:最新作『サガ エメラルド ビヨンド』はボイス搭載で2024/4/25発売!