束子ダイナミック

変なゲームと優しい物語が好きなブログ

あの日に帰りた(くな)い、魅惑の《青春ゲーム》特集

 《青春》だなんて死ぬほど陳腐なワードだとは思う。でも、そう思いつつも結局人はいつまでも青春的なものをフィクションの中に求めてしまいがちなんですよね。楽しかったあの日を追体験したいとか、実際は暗黒だった青春を取り戻したい、みたいな単純な欲求を満たすだけにとどまらない魔力が青春というモチーフにはある。一人の人間を底まで浚ってみせるような攻めた表現ができるのは、青春ものならではと言えるでしょう。

 すぐれた青春ものは各媒体にもちろん無数にあるのだけど、「当事者性」というのも青春の一つのキーワードだったりするので、ここはひとつ見てるだけじゃなくてゲームで青春を体験してみようじゃありませんか。そんなゲームを集めてみました。

高機動幻想ガンパレード・マーチ

youtu.be

※アニメ版のPVだけど、より雰囲気が伝わりそうなので。

 第二次世界大戦の真っ只中、異次元から現れた「幻獣」により人類は滅亡寸前に……そんな架空の歴史を辿った1999年の日本で、人型兵器による戦闘と学生生活に明け暮れる三ヶ月間を過ごす、学徒兵シミュレーションゲーム

 剥いても剥いても出てくる膨大な独自設定や、AIで自律的に行動するキャラクターの個性あふれすぎな振る舞いも魅力だが、何より戦争ものとして地に足のついた日常の質感が素晴らしい。戦時という非日常に見える状況も張本人たちにとっては紛れもなく日常であり、現実であり、デートもするしどうでもいい喧嘩もするし腹は減るし買い物もするし……と、こんな状況なのに呑気な学生生活を送ることができる。

 しかしながら軍規とか陳情とかいう耳慣れない単語は常にちらついており、ひとたび戦闘が始まれば何を置いても出撃させられるし、あっと思うと同級生が死んでて、二度とプレハブの教室には戻ってこない。来るか分からない明日を知ってか知らずか、平熱の今日を全力で駆け抜ける小隊の皆との日々は、どうも何年経っても忘れられない。

 PSのゲームで移植しか出ておらず、グラフィックが古いのだけが難点なので、リメイクをずっと待っている。

www.alfasystem.net

十三機兵防衛圏

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 アドベンチャーパート「追想編」と戦略シミュレーションパート「崩壊編」を行き来しながら、青春群像劇に隠された壮大な謎を紐解いていくSFゲーム。

 さまざまな時代が舞台となるが、序盤のメインは1985年の日本で、ちょっと古めの時代設定が『ねらわれた学園』とか『時をかける少女』とかの往年のジュブナイルSFを思わせる。それだけでなく、怪獣に宇宙人、人型ロボット、タイムスリップ、記憶喪失、選ばれた子供たち、など進めば進むほどあの頃のSFワードが全部入りで、世代によっては二重の意味で青春を感じることができるだろう。世界の秘密に壮大な陰謀、それらが全部本当だったら……? という世界観が手加減ゼロでどんどん開示されていく、中二の夢の世界がここにある。

 そういう不思議なものを本気で信じた一瞬には、自分も確かにこの世界の一員であったのかもしれないと思わせてくれるようなゲームです。

13sar.jp

ダンガンロンパ

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 デスゲームを仕組まれた学園を舞台に、アクション仕立ての推理ゲーム“学級裁判”で真実を明らかにする推理アドベンチャー。過激な設定や、CERO Dギリギリの残酷な「おしおき」ムービーで話題になった作品ではあるが、殺し殺される過酷な状況下だからこその、クラスメイト同士の心の交流――ひりついた対立や、複雑な感情や、温かい友情――が丁寧に描かれている側面もあり、紛れもなく青春ゲームと言えるでしょう。

 2以降もシリーズは続いているが、青春という意味でチョイスするなら断然初代。というのも今作には「卒業」が描かれているんですね。学校という守られた空間から一歩出れば、何があるかは分からない。でも、だからそこには「“希望”がある」と言い切ることができる。

www.danganronpa.com

ファイナルファンタジーXV

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 現代的な街並みや技術と、魔法や召喚獣といったファンタジーな側面を併せ持つ広大な世界で、クリスタルを巡る壮大な冒険と、男四人の仲良しキャンプ旅が描かれるアクションRPG。キャンプ旅の比率が割と高いのが特徴で、発売から八年が経とうかという今でも唯一無二のキャンプRPGである(キャンプRPGって何?)。

 今作の主人公ノクティスは20歳。そう、青春はティーンエイジャーだけのものじゃない。20歳はモラトリアム最後の砦だ。結婚を控えたノクトと友人たちの卒業旅行のような愉快な旅路は、やがて運命に吹き飛ばされて二転三転し、彼らを大人にしていく――いや、「してしまう」のである。振り返ってみれば、戻らない時間だけが輝いている。ああ青春。

 そして自分が歳を重ねるほどに「やっぱ辛えわ」の重みが身に染みてくる。本当になんなのこのゲーム。

www.jp.square-enix.com

おかしいな

きわめて真面目に選んだつもりなんだけど……
もしかしてこれって……
「青春(が滅茶苦茶になった)ゲーム特集」?

 しかし思春期の感情というのは元より滅茶苦茶なものなので、その滅茶苦茶さを外側に広げ、作品全体で表現しようとすると、こういう殺伐とした世界として表れてくるのかもわからないですね。さらに言うと、青春というのは有限で儚いものなので、いつ失われるともしれない時間というのは実に青春に似ている。

 青春がキラキラしてるなんて嘘嘘。嘘です。ここに紹介したゲームを遊ぶことで、あの頃の苦しさに思いを馳せてみるのも一興かと。

 ここに挙げた以外にエモい青春ゲームをご存知の方は是非コメントで。私が喜びます。

 

▽関連記事

最近の青春アニメならこれ。

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神ゲーもなにとぞ。

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舞台『SaGa THE STAGE 再生の絆』感想と、ゲームキャラクターが「演じられる」ことの意義について

 サガシリーズの舞台化企画「SaGa THE STAGE(以下、サガステ)」の第三弾、『SaGa THE STAGE 再生の絆』の東京公演を観てきた。

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 2018年に上演された前作、『ロマンシング サガ2』原作の『SaGa THE STAGE 七英雄の帰還』にはおっかなびっくり足を運んで、その熱量と殺陣のすばらしさと構成の出来の良さに衝撃を受け、大興奮でTwitterで呟きまくったりしていたのだが

※後日、無事にDL販売や限定無料配信などがされた

 今回観るかは正直かなり迷っていた。

 というのも今回の『再生の絆』の原作は、スマホでサービス中の『ロマンシング サガ リ・ユニバース(以下、ロマサガRS)』のオリジナルストーリー第一部・ポルカ編である。サービス開始から二年くらいはちょくちょく遊んでいたものの、最近は全く触れておらず、しかもこのストーリーというのが若干くせ者で、群像劇的に色々起きながら話があっちこっち飛ぶので、どうも読みにくくてね……大筋のストーリーは悪くないと思うんだけど、どうもね……。自分にとってのロマサガRSは、もっぱらイベントマップをオートでぶん回して数字が増えるのを眺める盆栽であった。そんな自分にこの舞台を観る資格があるんだろうか。

 さらにロマサガRSはサガシリーズのオールスター作品でもあり、つまりこの舞台も理論上どのシリーズのキャラであっても出演することができる。そんなん絶対とっ散らかるでしょ……一体どうなってしまうんです……?

 結論から先に言うと行って良かったです。ポルカ編ってこういう話だったんだ、ロマサガRSってこういうことがしたかったのか、と今回でやっと理解できた感じで、むしろストーリーにピンと来なかった人ほど観るべきものかもしれない。あとロマサガRSであると同時に『七英雄の帰還』のifルート続編的な趣もあったのは前作ファンとしては嬉しかった。

 また、ゲームの世界が生の舞台で表現されること――特にキャラクターが「演じられる」ことの意義という意味で、改めて衝撃と感じ入るものがあったので、後半ではそれらの話をしてみたい。

 ちなみに実写化という観点で話をするにあたって最初に言っておくと、サガシリーズの中できちんとキャラクターボイスが付いているのは、本稿執筆時点では『ロマンシングサガ ミンストレルソング』と『サガ スカーレットグレイス 緋色の野望』のみ*1で、ロマサガRSにも一部システムキャラを除いてボイスが無い。ご存じない方は「令和に個別ボイスの無いキャラガチャゲーなんて存在するのか……?」と思われるかもしれないが、無い。最初の頃はそのうち追加されるかと思っていたが、これで五年やってきているのでたぶん未来永劫、無い。

 ということで実写化はおろか、舞台化で五年越しや二十年越しに初めて声を聞いた、みたいなキャラがごろごろしているのがサガステだ。そんなわけで、他の実写化ものとは感覚が大きく違う可能性があるのはご承知おき願います。

悪役たちの名演怪演、そして……

 とりあえずオープニングアクトだけ見てほしい。

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 まぁあの、とっ散らかってはいたと思うんですよ。三時間の話として見ると、登場キャラクターは明らかに多すぎる……と思う。前半はかなりのダイジェストだし、それでも説明しきれていない部分も多い。リン・ウッド家にまつわる本筋だけでも語るべきことが多すぎるのに、他の話まで入ってくる。

 けど、そんなことはどうでもよくなるくらいに各キャラクターが放つ存在感は格別だった。というかこれだけのキャラクターを揃えて活躍させるためにこういう脚本になっていると思うので、そういう意味ではこれで正解なんだろう。殺陣は今回もさすがのクオリティで、それでキャラが多いものだから目が追いつかないくらいだったのであと三回くらいは観たい。

※以下、途中までややネタバレがあります。

画像は特に関係のないワラスボです

 今回の舞台、特に悪役が輝いていたと思う。女道化師を男性キャストが迫力たっぷりに演じたイゴマールには圧倒されたし、指先まで洗練された立ち振る舞いの中に優しさが滲み出るバルテルミーは素晴らしかった。リアルクイーンたちも終始ノリノリで、恐ろしさと同じくらいの愛嬌があった。一応今回は味方側に属する七英雄やジョー、バートにも悪役的な側面があり、その二面性が魅力になっている。

 そしてその悪役たちと時に向き合い、時に立ち向かうポルカの主人公っぷりといったら実に堂々たるものだった。これだけキャラクターが入り乱れる中できちんとずっと中心にいて、奮い立ったり喜んだり悲しんだりしているさまはもう紛れもなく主人公。オールスターゲームの主人公にありがちな影の薄さにこんな形で血が通うことがあるんだ。逆に言うと 、既に確立されたキャラクターの中にポンと放り込まれた新しいキャラクターが適切な求心力を発揮するには、これくらいの才能が介入していかないと難しいということでもあるのかもしれない。

 そして最後の最後に流れるロマサガRSのタイトル曲「再生の絆〜Re;univerSe〜」。この曲に関しては以前オーケストラコンサートの記事で、

towersea255.hatenablog.com

弱肉強食のスマホゲーム界で好調のまま2.5周年を迎えた本作の語りをああやって締めるのはずるい。そういう意味でこの曲が流れることはある種の祈りでもあり、優しいメロディが沁みる。何度も何度も聴く機会のある曲で、聴くたびに好きになる気がします。

とか言及したのだが、このたび本公演のテーマ曲としての記憶が付加されたことで、またしても泣ける度が一段アップグレードされてしまった。ゲーム音楽と「思い出補正」とは切っても切れない関係にあるが、それにも新しい時代の新しい形があるんだなと思わされる。

 というか、この曲のタイトルが2018年のリリース当初から「再生の絆」だったことを今思い出したよ! 今回は全部この曲に尽きるってこと!?

 「再生」は『ロマンシング サガ3』における「世界の再生」周りの設定を踏まえたものだとは思うけど、「絆」の方はポルカ編のテーマとして最初から据えられてたものだったのだろうか。今では第二部、第三部と別の主人公が活躍しているらしいロマサガRSだが、そのタイトル曲が初代主人公と深い繋がりがあったことがここで分かるのは……熱い!

 何年も運営を続ける中で、開発とユーザーとマルチメディア展開に関わる人々によって、ゲームの内外で積み重ねられた物語がそのキャラクターをヒーローにしていく。やっぱり運営型ゲームならではの伝説の作り方というのがあって、ポルカたちはそれを五年の時を経てやりきったんだなと思わされた。

※ネタバレここまで。

ゲームにとっての「演じる人」の存在

 さて、ここから後半。今回のサガステのように、生身の人の演技が入ることによって作品やキャラクターの見え方がガラッと変わるのがとても面白いなぁと最近思っていて。

 物語やキャラクターにとって、「演じる人」の存在は必須ではない。小説はもとより漫画やゲームだって、「書く(描く)人」と「読む人」がいれば十分に伝わるし成立している。例えばこの、

ヴァジュイールさんにボイスなどはないが、高圧的に楽しそうな声色で言っているんだろうなぁ、なんなら気障な手振りとか付けてるんだろうな、となんとなく想像はできる。ああ、想像したらまたムカついてきたな。こいつ絶対許さない。

 とはいえ普通に作品を楽しんでる読者・プレイヤーの大半は一つ一つの台詞のニュアンスを仔細に想像なんてしないので、そのぶん話運びだったり演出だったりでうまく誘導して感情移入させるのが作家の腕の見せ所と言えるだろう。

 しかし、「そんな声色」や「そんな動き」を実際の人間が演じてみせるとなれば、これは話が変わってくる。人物の一挙手一投足に演じる人の解釈と表現が大いに入ってくるし、そのディテールはほとんどの人のなんとなくの想像を大きく超えてくる(それが仕事なので)。

 仕事の関係で作品にボイスを入れる過程に立ち会ったことがあるが、ボイスの入る前後で表現の主役が絵やテキストから声へと完全に変わって、別物のように生き生きしだしたのをよく覚えている。悪く言えば他がぜんぶ霞んでしまったのである。

 サガシリーズにも非常に分かりやすい例がある。Vitaの『サガ スカーレットグレイス』が同『緋色の野望』としてPS4に移植された際に各キャラにボイスが付いたことで、それまでモブ同然だった仲間たちがそれぞれの個性を獲得して喋りまくるようになった。台詞そのものがかなり面白かったのもあって、ゲーム全体が全く違う印象になったのだ。

 これらの場合は声の演技ということになるが、キャラクターをその身を通して表現せんとする「演じる人の存在」というのは、元々それが無かった作品にとっては衝撃的に大きい。いやこれは本当に凄くて、作品にとって圧倒的な情報量のプラスであり、表現の次元が一つ押し上げられるくらいのインパクトだと思う。だから実写化にしろアニメ化にしろ、原作を壊すとか壊さないとかいうせせこましい懸念を時に吹き飛ばして、全く新しい世界を見せてくれることがある。それが演技の力というものなのかもしれない。

 特にゲームってのは元よりプレイヤーなりAIなりがキャラクターを「演じている」側面があって、ある意味ではゲームキャラクターとは「演じられる」運命にある存在なんですよね。私のエレンとあなたのエレンは似てるようで違うし、私の最終皇帝とあなたの最終皇帝なんてもっと違う訳じゃないですか。だったらサガステの最終皇帝はサガステの最終皇帝なんですよ。そういう視点で見れば、ゲームキャラクターはあらゆる形で演じられていいし、舞台ともなればそれは目の前で繰り広げられる最高のロールプレイなんです。

 無論、「主役はあくまで元の作品であり、せせこましかろうと原作のイメージをなるべく壊さずにやってくれるほうが良い」という向きもあるだろうが、自分としてはどうせならこの次元兵器でビッグバンを起こして新しいものが誕生するところが見たいと思ってしまう。それが、新鮮な驚きを見せてくれることにかけては抜群の信頼を誇るサガシリーズの展開であるならば尚更そうだ。

舞台の側から見たゲーム原作

 逆に舞台の側からゲーム原作ものという題材を見るとどうだろう。自分は結構普通のミュージカルとかも観るんだけども、舞台って潜在的な需要に比してあまりにも「実際に見てみないとよく分からない」ものすぎるんですよね。チケット高いし。みんなが知ってる馴染み深い原作やそのコミュニティからのプッシュという取っ掛かりがあることで、多少でも「ここで何を観れるか分かっている」状態で臨めるのは大きい。心理的なハードルが一つ下がる。

 また、演技がいくら素晴らしくて、いかにキャラクターの内面が表現されていようと、上映時間のその場限りのキャラクターに強い思い入れを持つのは難しいし、頭の中で醸成されるイメージもそれだけ少ない。そこは舞台というもののちょっと勿体ないところだと思う。その点、ゲームキャラクターとの付き合いは往々にして長く、数十時間に及ぶこともある。舞台の外でよく見知ったキャラクターが演じられているとなれば解像度も段違いだし、一つ一つの表現が記憶を刺激するから圧倒的に多くが伝わりやすい。ゲームと舞台の性質の違いは、お互いを補い合うような関係にあると思う。

 もっとも、舞台とは最終的に生モノであり、長い時間をかけて作ったものをパッケージして届けるゲームとはなんというか……「火の入れ方」が全然違うだろうことは予想に難くない。つまり……圧力鍋と炭火焼みたいな違いがあって、ほろほろビーフシチューは炭火じゃ作れない。この例えで伝わってます??

 どんなゲームでも舞台にしたらいいということは多分なくて、素材を渡す側にも受け取る側にも、ビーフシチューの材料でバーベキューをするぞ!という相応の覚悟と熱意が必要で、だから難しいのだとは思うし、それをわざわざやってるんだからサガって凄いよなとも思うのであった。

余談:マルディアスの大地は遠く

 最後に一つ言わせてほしいことがあるのだが、聞いてもらえるか?

 本来サガステ第三弾として上映される予定だったのがコロナのあおりで上演中止になったままの『ロマンシング サガ』原作『約束のマルディアス』は今どうなってるんですかね!?

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 いや分かるんですよ。興行なのだし役者さんのスケジュールもあるだろうから、一度タイミング逃すと難しいのは分かる。分かるが、いつか絶対実現してほしい。

 当ブログはナイトハルト殿下の舞台での活躍をいつまでもお待ちしています。

 

▼『七英雄の帰還』冒頭動画

こちらが前作。とりあえずオープニングアクトだけ見てほしい(二回目)。

youtu.be

*1:最新作『サガ エメラルド ビヨンド』はボイス搭載で2024/4/25発売!

『トリリオンゲーム』のスマホゲームヒット論がガチだった件

自分が詳しい分野や実情をよく知っている業界がフィクションに登場すると、細かい間違いやディテール不足、あるいは誇張が気になってしょうがないというのはよくある話。

スマホゲーチョットクワシイを自称する自分も例外じゃなく、ゲーム開発をテーマにしたフィクションの八割方には乗り切れないものを感じている。それは必ずしも作者が門外漢だからとか取材不足に起因するのではなく、たとえ同じような仕事をしていても環境や立場で見えているものは違ったりするので、まぁなかなか難しいものですよね……

 

……と思っていたのだが、ここに来てゲーム開発が主題というわけでもない作品で見事なガチ描写があり、訳知り顔は引っ込めることになった。

ドラマ『トリリオンゲーム』第6話で滾々と語られたのは、次のような「スマホゲームヒット論」だ。

  • スマホゲームの売り上げとは
    • 「アクティブユーザー数×一人当たりの課金額」である
    • つまりは「継続させること(ゲームとしての面白さ)」と「課金させること(買いたくなる商品)」の両輪を回す必要がある
    • そこに強力な広告宣伝の力でユーザーという燃料を注ぎ込む
  • ユーザーが課金する理由は
    • 他のユーザーに勝ちたいと思うからだ(競争原理派)
    • いや、遊んでいて心が揺れた瞬間があったからだ(体験派)
    • 結局有名キャラをガチャに突っ込めば売れるんだよ!(射幸派)
  • ゲームデザイン的な小技
    • ユーザー有利なイレギュラー挙動はあえて残し「自分で見つけた」と思わせる
    • リリース直後に超少額でお得な商品を仕込み、「最初の課金」のハードルをクリアさせる

こいつぁ……CEDEC*1講演かな?

いずれも基本的な考え方と言ってしまえばそれまでなのだが、なんせユーザーにじゃぶじゃぶ課金させようって話なのであまり大っぴらには語られないような内容だし、ぼんやりしたプロデューサーならこういう原則をうっかり忘れてて足下を掬われるなんてこともザラだ。スマホゲー開発で一発当てようって人間相手に語るヒット論として、かなり実践的でリアルな内容だと思う。

いきなりARPPUの話から入ったのでおおっと思い、お試し少額課金の話が出たところで取材の精度に感心するのを通り越して思わずコーヒーが気管に入ってしまった。

ここまで惜しみなく監修協力した売れっ子プロデューサーはどこの誰ですか!?

どこの誰だったか

この辺りの展開は原作にもあるようなのだが、とりあえずドラマのクレジットに載っていた監修協力者の名前で調べたところ、元・アカツキのプロデューサーとのことで大いに納得した。

アカツキといえば『ロマサガRS』や『ドラゴンボールZ ドッカンバトル』の開発運営元。スマホゲーでもコンソールゲームと見紛うクオリティのグラフィックや手触りで殴るのが主流になったこの時代に、強力なIPキャラクターを武器に2Dイラストのガチャを回させて、ガン積みした育成要素でひたすら遊ばせてユーザーを離れさせない――というまさに劇中でやったようなレガシーなマネーゲームで今もランキング上位を戦い抜いているメーカーである。

大丈夫かアカツキ。機密流出してるぞ。

ていうか『トリリオンゲーム』が面白い

アフィリエイトリンクなので気にする人は注意

驚きのあまり作品を紹介していなかった。『トリリオンゲーム』は、エンジニアとしての腕は確かだが要領の悪い主人公が、コミュ力お化けで世渡り上手な友人の誘いで一緒に起業し、二人で1兆ドル(トリリオンダラー)を稼ぐことを目指す!……という話。

何より素晴らしいのは、先のヒット論が単なる業界蘊蓄に終わらず、物語上の展開やテーマにがっつりと絡んでくるところだ。

以下、少しだけネタバレがあります。

特に展開と絡んでくるのがこの、

  • つまりは「継続させること(ゲームとしての面白さ)」と「課金させること(買いたくなる商品)」の両輪を回す必要がある

という論で、売上よりも純粋な面白さを求めるゲーム開発チームと、お金大好きなプロデューサーの二者がどちらも欠かせないのだという結論を導くし、主人公二人がそれぞれの信念を貫くことで、中身とハッタリの両輪が揃って勝利を勝ち取ったという展開とも見事にリンクしている。

ちなみに現実では、この継続施策と課金施策の両輪が上手く回らないと「面白いけど課金するところがない」ので売り上げが上がらず、あるいは「課金圧ばっかりでストレスたまる」のでユーザー離れを起こし、結果早々にサ終、というよく見る光景になります。つくづく経済の縮図だなあ、スマホゲームってのは。

ベンチャー企業スマホゲー開発で一攫千金を狙う」という筋書きは(ソシャゲバブル全盛期ならいざ知らず)今やるには遅まきな展開だと最初は思ったのだが、大資本にものを言わせた広告に、もっと影響力の強い広告をぶつけることで凌駕するという、ここ数年の事情を反映した展開もあってよかった。広告で殴らないと箸にも棒にもかからない時代よ。

そして物語は情報発信をテーマにしたメディア編へと繋がっていくのだった……!

世界がどのような論理で動いているのか。その中でどのように裏をかき、どのように成り上がるのか? 経済というものと真っ向から対峙しようとする本作が、様々な業種の本音やジレンマを扱っていくのはある意味で必然でもあるけれど、フィクションの動力を借りて世界の姿を描こうとする試みはスリリングで目が離せない。こういう話が好きです。

ドラマ版はキャスティングも全員ハマってて良かったですね。日本のドラマはタレント役者ばかりと批判されがちだけど、こうやって演じる人の個性と役柄が化学反応を起こして面白いことになるパターンもあるので、一概に悪いとも言えないのよね。役者を美しく見せたいあまり、ヘアメイクが張り切りすぎていて違和感(冴えないキャラクターなのに小綺麗すぎる)が出ていることも多いけど、桐姫みたいな元からゴージャスなキャラだと映えること映えること。全体に日本のドラマの特徴と相性が良い原作だし、それを活かしきったなと思う。

なんか妙に見覚えある人がいるなぁと思ったら、声優の津田健次郎だった。

www.tbs.co.jp

近々アニメ化もするとのことで、こっちはどうなるでしょうね。

trilliongame-anime.com

*1:毎年夏に行われるゲーム開発者向け講演会。第一線のクリエイターが豊かな専門的知見を共有してくれるが、参加費が高い。

ゲームが現実を侵略する日。みなとみらいの奇祭「ピカチュウ大量発生チュウ!」

ピカチュウ大量発生チュウ!」。2014年から2019年まで、横浜みなとみらいで毎年夏に開催されていたイベントである。

一週間程度の期間中、みなとみらいの主要な施設――みなとみらい線みなとみらい駅、JR桜木町駅ランドマークタワーパシフィコ横浜日本丸、赤レンガ倉庫など――をポケモン一色に染め上げ、ピカチュウ(など)の着ぐるみによる行進やステージショーがエリア内の各所で開催される。祭りだ。

2020年以降はコロナ禍に伴って休止されていたが、今年2023年にはパシフィコ横浜で行われるポケモンバトルの世界大会との併催という形で「ポケモンワールドチャンピオンシップス2023横浜みなとみらいイベント」として事実上の復活を遂げた。

恒例のJR桜木町駅舎ラッピング

こちらも恒例、駅前の巨大バルーン

ランドマークプラザの吹き抜け下には巨大ポケモンカード

フォトスポット

今年は全体にポケカ推し

パシフィコ横浜の会議センターには特設会場が

ゲームの体験コーナーやご当地コラボコーナーなどがあった

マークイズみなとみらい前の行進。大人気

さらば

今年は混雑防止のためか、ステージショーなどは事前予約制となっていた。レポとしては中途半端でごめんだが、雰囲気だけでも伝われば嬉しい。他、フォトスポットも広範にあったり、ドローンショーが凄かったらしいですよ。

www.pokemon.co.jp

初開催時の衝撃

さて、ここからが本題だが……これって一体なんなのだろう?

遡ること9年前(!)、初開催の2014年夏。桜木町駅から一歩出て、この光景を初めて見たときの衝撃はなかなかのものだった。

駅前広場ではピカ耳カチューシャが無限に配布されていて、子供も大人もそれを着けて歩いている。黄色いコスチュームに身を包んだお姉さんが笑顔を振りまいている。そこら中に設置された大小のピカチュウバルーン。右を見ればビルの壁面にでかでかと貼られたポスター、左の遊歩道には吊り下げ旗がはためき、モールに入れば天井からはピカチュウのぎっしり詰まった謎の装飾がぶら下がる――どこを歩いてもあの黄色い姿が視界に入る……

 

……ここがポケモンが世界を征服した世界線ですか?

まるで街ひとつが丸ごとテーマパークになっているよう。用意された様々なショーやアクティビティももちろん楽しかったけれど、何よりも居るだけで心躍るような空間がそこにあった。

周囲を見回せば子供の姿が一番目立つが、思いのほか大人の姿も多い。そう、このイベントを成功させた真の要因は、ポケモン好きの子供だけでなく、昔ポケモンが好きだった、普段浮かれることの許されない大人にも目配せしたことではないだろうか。大人だってカチューシャして街中を歩き回りたいし、水かけられてはしゃいだりしたいのだ!

各種テーマパークというのは半分その欲求を満たすためにあるんだと思う。しかし繰り返しになるが、このイベントが特殊なのは、テーマパークではなく街中を舞台にしているところだ。

何故やるのか? 何故ピカチュウなのか?

2018年

これらの催しはほとんどが無料。ごく一部入場料制のイベントがあったり、各所でグッズを売ったりはしているものの、割に控えめ。だいたい混んでいて買いたくても買えないくらいなのだ。年々商売っ気が薄れていくような印象もある。どう考えてもイベント単体では赤字だ。いや、もしかしたら各施設から何らかの利用料のようなものがあるのかもわからないが、それにしたってひとつひとつの催しで十分にお金が取れるような内容を、お客さんに無料で提供していることには変わりない。

では何のためにこんなことを?

2015年

特定のキャラクターが街一つを徹底的にジャックする。その主役がピカチュウポケモンであるというのは機能面では納得のいくことだ。これしかないとも言える。老若男女誰もが知っているキャラクターでありながら、オンリーワンではなく飽きるほどたくさん居ても構わない。むしろたくさんいればいるほど面白みがある。そんな存在は他になかなか居ないだろう。

2016年

でも同時にそれはとても奇妙でもある。

町ぐるみのイベントは、ある意味ではテーマパークよりも敷居が高い。そこは公共の空間で、住む人や働く人にとっては生活の空間でもあるからだ。

みなとみらいは埋立地に作られた計画都市。近未来的なショッピングモールやオフィスビルが建ち並ぶ、美しい景色が売りのデートスポットだ。普段はそれなりのおしゃれタウンであるそんな街に、たかだか四半世紀ちょっとの歴史しか持たないゲームキャラ、この小さな黄色い電気ネズミが跋扈することが許されているのはちょっと不思議だ。

towersea255.hatenablog.com

前にも書いたが、ポケモンのことを冷静に考えると妙な気分になる。

小さな子供向けのキャラクターか? 二十年前はそうだったような気がする。大学生や、若い親世代にも人気のキャラクターか? 十年前はそうだった気がする。今はどうだろう。このモンスターはじわじわと、老若男女みんなが知っている、あらゆる場所でそこに居て当たり前のキャラクターとしての市民権をもぎ取っていきつつある。

2017年

そりゃ、ポケモンが何故成功したのか? なんて問いには、ゲームが面白くて、ゲームボーイという歴史的プロダクトと相まって滅法売れたからだよとか、アニメが良く出来ていたからだよとか、キャラクターデザインが魅力的だったからだよとか、早くから海外展開を上手くやったからだよとか、いくらでも理由はあるんだろう。それにしてもだ。それにしてもあまりにも大きすぎである。ゲームボーイの画面の中でヂャァァァッって鳴いてた頃に、こんなことになるなんて想像したか? なぁピカチュウよ。

何故許されているのか。それは長年にわたって多大な努力が払われた結果だろう。このイベントもきっとその一つだ。

イベント単体の採算よりももっと大きな目的――ポケモンという存在そのものの拡大計画の一環として、この奇祭は粛々と執り行われているのだと思う。居て当たり前の存在にして、我々の生活に溶け込ませようとする、そうこれは侵略である。いずれポケモンは本当に世界を征服するのかもしれない。

いや、もしかしたらもう既に……?

2018年

ピカチュウたちはたぶん来年も、夏の訪れと共にみなとみらいを侵略しにやってくる。

無料イベントということもあって行列・待機列は覚悟した方がいいイベントなのだが、必ずしもそこまで頑張る必要はない。みなとみらいを観光がてら、目の端に映り込むピカチュウたちを眺め、ただあの空気を吸って異空間を感じるだけでも価値のある祭りだと、久しぶりに目にして改めてそう思った。

ゲームが現実を侵略する。ゲームファンなら一度は見ておきたい、痛快な光景がそこにある。

【推しの子】が暴こうとする、推す者と推される者の絶望的な「すれ違い」。それでも光はあるから

【推しの子】アニメ1期、良かったですね。原作をきっちり拾うあまり若干メリハリに乏しいかなという部分はありつつも、見せ場をしっかり膨らませる演出力と楽曲の魅力、声優陣の好演熱演で全部持っていった感じ。コミックスのときから大好きな作品なのだが、アニメ化でまた一段と人気が出た印象があって喜ばしい。

youtu.be

さてこの【推しの子】だが、可愛いアイドルを前面に押し出したビジュアルやタイトル、ネタバレを避けるとなかなか突っ込んで語れないという序盤の仕掛けも相まって、未読・未見の人からは結構内容が誤解されている作品でもあると思う。

確かにこの作品はエンタメとして面白い。華やかで可愛く、たまに息を呑むほど残酷で、勢いがあり、謎めいている。しかし、ただ面白いだけがこの作品の魅力ではない。エンタメでありながらエンタメのあり方を批評するような、ある種倒錯したスタンスを持った作品なのだ。

それを語るには少々のネタバレが不可避になるので、今回は思い切って最序盤をネタバレしてしまいつつ、私が本作の何をそんな持ち上げているのか、何故この作品が2023年の今、ここまで関心を惹き続けるのか――について考えてみたいと思う。

もちろん何も知らない状態が一番楽しめるとは思うが、多少のネタバレで面白さが大きく棄損されることはない作品だと思うので、全然知らんぞという人でもこれを読んで興味を持ってくれたら嬉しい。

注意:本稿には【推しの子】アニメ1話(コミックス1巻)までのネタバレが含まれます。また直接的なネタバレは避けますが、その先の内容にもいくらか触れています。

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『アイドルマスター』に見る「挫折と夢」のゲームデザイン。あるいは人がゲームの中のアイドルを愛するようになるまで

引退ライブは無事に終わった。トップアイドルになれなかった彼女は、私を責めたりしなかった。ただ笑って舞台を下りて、私を置いて去っていってしまった。忸怩たる思いでそれを見送った瞬間に、私は「アイドルマスター」への第一歩を踏み出したのだ。

アイドルマスター』(以下、アイマス)は今年で十八周年を迎える巨大IPだ。ここ十年ほどで一大ジャンルとして確立した「アイドルもの」コンテンツの、原点にして頂点と言っても過言ではないだろう(異論は認める)。その展開はアニメ、CD、ライブコンサート、ラジオ、企業コラボ等々、多岐にわたるが、その全ての中心にはゲームがある。

そう、アイマスはゲームが核だからこそ、ここまで息の長い成功を収めるに至っているのだ。とここでは言い切ってしまいたい。アイマスは、ゲーム性×キャラクター×楽曲の密接な関係からなる印象的なゲーム体験を作り続け、プレイヤー=プロデューサーを、アイドルたちの物語へと巻き込み続けてきた。結果としてアイマスは、ただアイドルを「推す」だけではなく、自ら「プロデュース」していくことでインタラクティブに完成する、唯一無二の"参加型"アイドルコンテンツとなった。

プロデューサーたちにとっては当たり前すぎるためなのか、意外とアイマスゲームデザインの観点から語られることは少ないように思う。ということで今回はアイマスというゲーム体験がアイドルたちへのを生み出すメカニズムについて考えてみたい。アーケード、コンシューマ、そしてモバイル、スマホへとプラットフォームが移り変わる中で、それぞれの特性を存分に活用した仕掛けがプロデューサーたちの心を捉えてきた。

アーケードのアイマス~失敗から始まる物語

アイマスは最初「アイドルを育ててオーディションで戦う対戦ゲーム」としてアーケードから出発した。2005年のことである。その後コンシューマで発売されたXbox360アイドルマスター』とPSPアイドルマスターSP』も、ほぼ同じシステムとなっている。自分が遊んだのがコンシューマ版だけなので、以下そちらも混ざった内容になっているが容赦いただきたい。

プレイヤーはアイドル事務所「765プロダクション」のプロデューサーとして、所属のアイドルから一人~三人を選んでユニットを組み、決められた期間内でトップアイドルにすることを目指す。営業という名のコミュニケーションイベントを成功させて絆を深め、レッスンという名のミニゲームで能力を上げる。そしてオーディションという名のバトルに挑む。手塩にかけたアイドルがオーディションを勝ち抜けなければ、ファンの大幅増を狙えるライブステージは披露できない。ファン数が思うように伸びなければプロデュースは失敗となり、引退のバッドエンドが待っている。

ミニゲームやオーディションは操作こそシンプルだが内容に癖があり、上手くこなすにはコツや慣れが必要だ。この一つ一つに特筆すべき面白みがあるわけではない。ここで重要なのは、そのどれもが初めて遊ぶ際には難しく感じられること、そしてアイマスが優れたキャラクター性を持ったゲームであることだ。

プロデュースに失敗するとき、アイドルたちは様々な反応を見せる。目に見えてがっかりする子、他の道を探しますとあっさり去っていく子、悔しそうな様子を見せる子など。こういった生々しい反応が、数多のプロデューサーの心に火をつけた。「次こそは絶対にこの子をトップアイドルにしてやる」という多くの誓いが立てられたのだ。

www.nicovideo.jp *1

ゲームの中のアイドルがバッドエンドを迎えることは、下手をするとゲームの中のプレイヤーキャラがそうなるよりも悔しい。例えばこれが、「自分がアイドルになってトップを目指すゲーム」だったならここまで強烈な印象を残すことはなかっただろう。「しょせん自分の才能はこんなものだった」と言われることが、「お前のせいだ」と責められるよりも堪えるのは何故だろうか。

対人に限らず、コンシューマ版などでCPUを相手にする場合でもオーディションの難易度はなかなかの高さに設定されており、初見ではまずトップアイドルにはなれない。だがそれでよいのだ。「最初にプロデュースに失敗するところからアイマスは始まる」のだと、歴戦のプロデューサーはよく言う。「最初にひどく失敗した人ほどハマる」とも。

コンシューマのアイマス~妥協なしのステージシーン

アイマスというゲームを語る上でもう一つ、欠かせない要素がある。オーディションに勝利すると見られるステージシーンの圧倒的なクオリティの高さである。

ビジュアル面では何より、革命的に可愛い3Dキャラクターのダンス。特にXbox360版におけるライブシーンは、以後軽く10年間ほどは他の追随を許さず、「3Dモデルは多彩な表現と引き換えに可愛さを妥協するもの」というそれまでの常識を粉々に破壊した。全然可愛い。いやむしろ、こっちの方が可愛いまである。

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2007年の発売なんですよこれ。触れたらやわらかそうな質感と、拙さやあどけなさまで感じさせる生き生きした動きは、2023年の今見てもなんだかプレシャスだ。この過剰なほどのこだわりはご褒美としてのモチベーション以上に、「トップアイドルになるべき女の子」というゲーム全体の動機に説得力を与えた。

もう一つ、個人的にポイントだと思うのは、ゲーム中でアイドルが2Dイラストで表示されることはなく、コミュニケーションシーンでもステージシーンと共通の3Dモデルを使っていたことだ。事務所や舞台裏で語りかけてくるアイドルと、ステージの上で歌って踊るアイドルが同一の存在であることが、見た目の点でも完全に保証されていた。このことで彼女たちの実在感はグッと増している。遊んでいて醒めてしまう瞬間がないのだ。

そして忘れてはならないのが楽曲。シビアな競争が繰り広げられる中でアイドルによって歌われるのは、「絶対にトップアイドルになるぞ!」「夢を叶えるぞ!」という底抜けに前向きで、力強い歌だ(そうでないのもあるが、多くはそうだ)。代表例がこの『GO MY WAY!!』。

未来は誰にも見えないモノ
だから誰もが夢を見てる
どんな地図にも載ってないけど
どんな時代〈とき〉でも叶えてきたよ

歌によってアイドルたちは夢を描く。その「夢」は何度も何度も打ち砕かれることになるが、プロデューサーが諦めない限り、あなたのアイドルは最終的にはトップアイドルになることができるだろう。そのときプロデューサーは、「夢は叶う」と歌い続けた彼女たちが本当に夢を叶えた姿を目撃することになる。「何度失敗しても、一緒に夢を叶えていく物語」を彩るのに、これ以上ぴったりの楽曲があるだろうか。

ソーシャルゲームアイマス~アイドル総選挙のゲーム化

さて、アーケードで生まれ、コンシューマで成功を収めたアイマス。続編『アイマス2』が賛否両論を呼んでファンコミュニティが真っ二つに割れたり、アニメ『アイドルマスター』が誰も予想しなかった名作ぶりでそれを修復したりとプロジェクト全体が大きく変化していく中、思ってもみない場所から花を咲かせたのが、2011年にモバゲーでリリースされた『シンデレラガールズ(以下、デレマス)』だ。

この頃ちょうどリアルのアイドル界では、某大物プロデューサーの手がける総選挙制アイドルグループが台頭していた。デレマスはこれにインスパイアされたシステムを採用。百人近い所属アイドルの中から投票上位にランクインした「シンデレラガール」には、新曲の歌唱メンバーとしての採用や、ボイスが付くという特典が与えられた。

数枚のイラストと少しばかりのセリフしかない、有象無象の(失礼)アイドルの一人である自分の担当が選挙で上位に入り、曲や声を得る――そんな「シンデレラストーリー」を夢見て、ゲームの内外を舞台に熱心なプロデュース活動が繰り広げられることとなったのである。

このシステムの中では、人数が多いことの帰結として、当初はとにかく派手な個性を持ったアイドルが持て囃されがちであった。『S(mile)ING!』は、デレマスのセンターポジションでありながら、当初は周囲の尖りまくりな個性に埋もれていたアイドル、島村卯月の念願のソロ曲である。

今はまだ 真っ白だけど
見てほしい 知ってほしい みんなに

少数精鋭にみっちり作りこまれたキャラクターではなく、隙間だらけの真っ白な存在だからこそ、プロデューサーが魅力を見つけだし、「魔法をかけて」あげることができる。デレマスにおけるシンデレラストーリーを体現するような物語を得たことで、逆に彼女のセンター性は不動のものとなったのだった。

モバイルゲームという制約の中で必然だった「シンプルなカードバトル」と「キャラクターガチャ」というシステムに、アイドルとオーディションバトルというモチーフを当てはめることで、アイドルプロデュースという遊びを成立させた――これは「アイマスソーシャルゲーム化」という命題に対する十全な回答であると同時に、ソーシャルゲーム史に残る大発明でもあったと思う。こうしてデレマスは当初の予想を裏切って大ヒットを飛ばし、今日まで続く美少女ガチャゲーの基盤を築いたのだった。*2

適正価格か足元見てるか?~「アイマス商法」の是非

この項は少し余談だが、ガチャの話ついでに触れておく。アイマスは上記のような体験へのコミットの度合いに応じて、割と高めの「対価」を要求してくる。「趣味はゲーム」ではなくもはや「趣味はアイマス」だと捉えている……とまで言う人もいるとかいないとか。

ソーシャルゲームのガチャ課金は言わずもがな*3アイマスはガチャの登場以前からそうだった。アーケードの厳しいバトルの沙汰も金次第であるし、コンシューマでは衣装や楽曲のDLCが多数配信され、全て買えば余裕でゲーム本体を超えるような金額に達する。この土壌があったからこそ、黎明期にはゲーマーから鼻白まれていたガチャ商売を、既存のゲームシリーズとしてはいち早く取り入れることができたとも言えるだろう。

長らく「アイマス商法」と揶揄され、しばしば批判の対象にもなるこの値付けだが、個人的な意見を言わせてもらえばこれは間違っていないと思う。

コンテンツにも持続可能性というものがある。安売りすればその場では喜ばれるかもしれないが、持続できずにそれっきりになってしまう可能性が高い。それはクリエイターとファンの双方にとって本当に幸せなことだろうか?

アイマスは良いものを作り、それに胸を張って強気の値段を付けていく戦略を取った。そして実際、十七年間生き延びてきた。飲食や服飾の世界ではブランディングと共によく行われていることだが、これをやれてるコンテンツはまだまだ少数なのが現状ではないだろうか。

もちろん高額を払わなければ楽しめないということもなく、それこそネットでファンメイド作品を見るだけなら無料だし、自分などはたまにゲームやCDを買うくらいでかなり安く楽しんでいる方だと思う。裾野の広さも一つ上手いポイントなのだろう。

2023年のアイドルマスター~全ての頑張る人への応援歌

自分がアイマスを初めて遊んだのは十年以上前、春香さんと同じ17歳のときだった。といっても彼女たちのようにキラキラした青春を送ってはおらず、かなり先行きの暗い高校生だったわけだが、そんな自分にはアイマスはあまりにも眩しすぎた――もちろん良い意味で。

あのひたすらに前向きなエネルギーには、ぬかるんだ足元ばかりを見ていた視線を遠くに向けさせる力があった。アイドル達の物語はフィクションではあるけれど、力強い夢を堂々と描き、そこに情熱を注いだ人たちが確かに居るという事実は一つの希望になった。

アイマスは全ての頑張る人への応援歌なのだ、という確信は、その時から変わらない。そしてニッチな美少女ゲームだったあのときよりも、今の方がより多くの人に届いているはずだとも思う。そう、アイマスは大きく、広くなった。いつの間にやら初期の頃のいかがわしさなど感じさせないような、万人向けのコンテンツになっていた。

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現在、アイマスは最初の舞台である765プロダクションから派生して、主に5ブランドでの展開を行っている。ソーシャルゲームを出発点として、100人以上の超個性的なアイドルがひしめくシンデレラガールズ。アニメ版の流れを汲み、765のオリジナルメンバーを含む50人が活動する、妹分的存在のミリオンライブアイマス2に登場したライバルユニット・ジュピターをはじめとする"訳あり"なメンズアイドルたちの再出発を描くSideM。ユニットを主軸に展開を行い、アイドル同士のエモーショナルな関係性にフォーカスしたシャイニーカラーズ

idolmaster-official.jp

先日SideMのスマホゲーム『GROWING STARS』のサービス終了が発表された際には、「これでSideMブランドのゲームが一つもなくなってしまう」と嘆く声が見られた。やはりアイマスの軸はゲームでないと駄目だ、というプロデューサーの思いは、ブランドを問わず強いと思われる。

アニメ化以降のアイマスは遊びやすさを重視してか、分かりやすいシステムかつ明確なプロデュース失敗がないようなゲームシステムが主流になっている。それにより間口が広がった側面も大いにあるのだが、どうにも物足りなさは否めない。崖から突き落とすような挫折と眩しいライブシーンが強烈なコントラストを描く「失敗ありき」の体験には、やはり強い引力があると思うからだ。

現行のゲームの中でもっとも初期の形に近いシステムなのは、ブラウザゲームとしてサービスしている『シャイニーカラーズ』だろう。

これにはプロデュースモードが存在する。チュートリアルミッションの流れは、明らかに「最初にある程度失敗させること」を意図してもいる。だが、こちらは育成終了したアイドルを編成してフェスで戦うというもう一つのメインシステムの都合上、ゲームのテンポが速い。そのためか、無印ではご褒美として位置づけられていたライブシーンはかなり簡略化されたものになっている。

ライブシーンへの強いこだわりを受け継いでいるのが、モバイルからスマホに戦場を映してブイブイ言わせている、シンデレラの『スターライトステージ』やミリオンの『シアターデイズ』といったリズムゲーム勢だ。

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ステージというよりMV(ミュージックビデオ)的な演出が施されたものも多く、運営が続く中で新しい演出手法を取り入れて進化しているのが感じられる。

どちらも正しくアイマスの後継者ではある。だが、やはり光と影は一つでなければならないのではないだろうか。

近年ではインディーゲームの隆盛やストーリーのナラティブを重視する風潮により、極端なコンセプトを持って感情に訴えかけるようなゲームが評価される土壌が急速に整ってきている。「ゲームに翻弄されるような」体験を求める人は確実に増えており、初代アイマスのような体験はそういったゲーマーたちの心を少なからず掴むだろう。美少女ゲームを超えたアイマスは、アイドルゲームを超えて、心を動かすゲーム体験として広く受け入れられる可能性を持っていると思う。

欲を言えばそういう尖ったアイマスの新作がほしいところなのだが、とりあえずXbox360版(箱マス)のPC移植あたりはそろそろあってもいいんじゃないかと――例えばゲーパス入りしてXboxとの蜜月を再開なんかしたら話題になりそうだけど、どうでしょう?

 

〜おまけ〜

ここまで長々書いておいて自分の担当について一言も書かないのは嘘だと思うので、最後に入れておきますね。

765の担当は菊地真。持ち前の王子様ルックスを活かしたカッコいいアイドルを演じる一方で、本当は誰よりカワイイものに憧れてる女の子。ギャップが魅力のアイドルなのだが、実のところ彼女の一番の魅力は、明るく前向きで、仕事に真面目で、常識人で、さっぱりしていて、爽やかで……という何というかフツーの、自然体な素顔にあると思う。プロデューサーには自明な魅力がなかなか伝わらないところをもどかしく思わされる。十年くらいずっと思わされている。

ミリオンの七尾百合子にはほぼ一目惚れと言っても良かった。「文学少女って要するにクラシックなタイプのオタクだよね」という真理を見事に撃ち抜いていて、彼女は単に夢見がちで大人しい女の子ではなく、本の中の世界すなわちフィクションを愛しているという自負を持つ誇り高きオタク(かぜのせんし)なのだ。「こちら側の人間」で、だからこそアイドル活動の中で様々な世界に飛び込めることを誰より楽しんでいる。そしてこれで美人タイプなのもちょっとずるい。

シャニマスの黛冬優子の物語にはちょっと驚いた。素のままの勝気でひねた性格では「愛されない」ことを分かっているから、「愛される」少女を演じようとする。だが、被っていただけだったはずのアイドルの仮面がいつしか自分の一部になっていく……。他人からの評価を常に気にせざるを得ない現代病と、演じることが自意識を侵食していくみたいな部分とか、二面性が否定的にならずに描かれているんですよね。

シンデレラとSideMはアニメとコミュニティを横目で見てただけなので、担当とまで言えるアイドルは居ないのだった。すまない。精進します。

*1:今回の記事では公式ではないユーザーからアップロードされた動画へのリンクを多数貼っている。基本的にはあまりよろしくないのだが、アイマスに限っては公式が切り出しアップロードや改変を含むファン活動を黙認してきた歴史的経緯から許してほしい所存です

*2:厳密に美少女ガチャゲーの始祖ではないかもしれないが、DeNA協賛企画 日本モバイルゲーム産業史 目次&年表 を見る限りでは火付け役であることは間違いないと思う

*3:これに関しては他のゲームもそう変わらぬ相場だが

現実を鼓舞するフィクションであることへの自覚と肯定。映画『グリッドマン ユニバース』感想

個人的に近年で最も刮目して見るべきTVアニメシリーズだったと評価している『SSSS.GRIDMAN(以下、GRIDMAN)』と続編『SSSS.DYNAZENON(以下、DYNAZENON)』。その両作品を融合する新作劇場版『グリッドマン ユニバース』が公開されたので、先日劇場で観てきました。

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両作品のキャラクターやヒーロー、メカが共闘するお祭り作品であり、スクリーンサイズの熱いバトルが楽しめる作品であり、意欲的で切実なテーマをストレートに描き切った作品でもあった。高いハードルを軽々超えていく相変わらずの跳躍力には驚かされる。

シリーズを知らなくても観てほしい! と言いたい気持ちは山々なのだが、本作は基本的には『GRIDMAN』と『DYNAZENON』を観た人向けの映画だろう。最初におさらいも兼ねて両作品についてネタバレ控えめで簡単に紹介してみるので、興味を持ったら是非とも順番にどうぞ。2023/3/29現在、過去作はアマプラ等で配信されている模様。各12話だからサクッと観れるぞ。更に言うと、これらには原作となる1993年放映の特撮作品『電光超人グリッドマン』があるが、私はこちらは未見であることは最初に白状しておく。

  • 『SSSS.GRIDMAN』~自分の中の怪獣を救えるか
  • 『SSSS.DYNAZENON』~他者と関わり、少しだけ変われる
  • グリッドマン ユニバース』~物語についての物語
    • 創造することの肯定
    • フィクションの存在意義
    • そのほかの感想

『SSSS.GRIDMAN』~自分の中の怪獣を救えるか

同級生の女子・宝多六花の家で目を覚ました響 裕太は、自分が記憶喪失になっていることに気付く。混乱の中、街には怪獣が現れて街を破壊し始める。古いパソコンの中から「グリッドマン」の声を聞いた裕太は、彼と一体化して怪獣と戦うことに。友人の内海 将と六花が見守る中でなんとか怪獣を倒すも、次の日には怪獣の存在は他の人の記憶から消し去られ、怪獣によって命を落とした人は「前からいなかった」ことになってしまっていた――。世界は一体、どうなってしまったのか?

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本作の魅力として、まず主人公たち「高校生という存在」への異様な解像度の高さがある。気怠い調子の会話、掴めない距離感、黒板消しクリーナー、昼休みの教室。乾いたトーンで映し出される日常の手触りは、怪獣との戦いという非日常の恐怖と興奮を際立たせる。

やがて物語の焦点は、怪獣を生み出している「一人の少女の心を救うこと」へとシフトする。本シリーズにおける怪獣とは、生きづらい現実への憤りが発露したものであると位置付けられているように思う。おだてられ、そそのかされて、怒りに任せて怪獣を暴れさせる彼女への救いは、どんな形で差し伸べられるのか? 衝撃的で鮮やかなラストは必見。

『SSSS.DYNAZENON』~他者と関わり、少しだけ変われる

友人たちと平凡な青春を送る麻中 蓬。そのクラスメイトで、病的な約束破りを繰り返す南 夢芽。無職の33歳、山中 暦。その従妹で不登校飛鳥川ちせ。そして行き倒れの怪しい男、ガウマ。全くもってバラバラな彼らは、成り行きで合体ロボット「ダイナゼノン」に乗り込んで怪獣と戦うチームにされてしまう。冗談みたいな状況に戸惑いながらも戦いを繰り返す中で、彼らの停滞した心はほんの少しずつ動き始めていく。

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彼らの敵は、怪獣を操る力を持ち、暴れさせることを使命と考える「怪獣優生思想」なるチームだ。こちらもそれぞれに葛藤や鬱屈を抱えており、チーム内や主人公たちとの交流を重ねることで少しずつ変わっていく者もいる。彼らは基本的には悪ではあるのだが、そうすることにしか意義を見出せない悲哀が感じられて憎み切れないものがある。

本作は、『GRIDMAN』ではフォーカスされなかった「他者」というものについての話であると思う。「他者と関わり合うことで、少しだけ良い方に変われる」という希望が示されている。「少しだけ」というのもポイントで、大きく変わったり、これまでの自分を全く捨て去るような劇的な変化ではない。少しだけ幸せな結末の、そのささやかさが切なくも愛しい。

グリッドマン ユニバース』~物語についての物語

以上の両作品は少しだけ繋がりはありつつも、基本的には独立したお話だった。特徴的なのは、どちらも現実との繋がりが強く意識され、特に主人公たちと同じ時間を生きる(若)者に対しての救済やエールとも受け取れる内容になっているということだ。「特撮作品を原作に持つアニメ作品」という風変わりな越境企画が、その軽やかさを担保しているようだった。

特撮にはあまり明るくないので的外れだったら恐縮だが、怪獣という存在は得てして何かのメタファーである。現実における恐ろしい存在――災害や戦争や心の傷が、怪獣という巨大なフィクションに託して表現される。〈現実 対 虚構〉は『シン・ゴジラ』の宣伝コピーだが、怪獣ものに共通した永遠のテーマなのかもしれない。

グリッドマン ユニバース』の中心に据えられているのは、虚構=フィクションという概念そのものであるようだ。『GRIDMAN』と『DYNAZENON』という二つの物語への自己言及であり、言及はこの映画そのものにまで及んでいる。そして、そうしたフィクションが現実を鼓舞し、前に進む力となることへの信頼を力強く示している。

 

※以下、『GRIDMAN』の結末に触れ、『ユニバース』もネタバレ全開します

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