束子ダイナミック

変なゲームと優しい物語が好きなブログ

『アイドルマスター』に見る「挫折と夢」のゲームデザイン。あるいは人がゲームの中のアイドルを愛するようになるまで

引退ライブは無事に終わった。トップアイドルになれなかった彼女は、私を責めたりしなかった。ただ笑って舞台を下りて、私を置いて去っていってしまった。忸怩たる思いでそれを見送った瞬間に、私は「アイドルマスター」への第一歩を踏み出したのだ。

アイドルマスター』(以下、アイマス)は今年で十八周年を迎える巨大IPだ。ここ十年ほどで一大ジャンルとして確立した「アイドルもの」コンテンツの、原点にして頂点と言っても過言ではないだろう(異論は認める)。その展開はアニメ、CD、ライブコンサート、ラジオ、企業コラボ等々、多岐にわたるが、その全ての中心にはゲームがある。

そう、アイマスはゲームが核だからこそ、ここまで息の長い成功を収めるに至っているのだ。とここでは言い切ってしまいたい。アイマスは、ゲーム性×キャラクター×楽曲の密接な関係からなる印象的なゲーム体験を作り続け、プレイヤー=プロデューサーを、アイドルたちの物語へと巻き込み続けてきた。結果としてアイマスは、ただアイドルを「推す」だけではなく、自ら「プロデュース」していくことでインタラクティブに完成する、唯一無二の"参加型"アイドルコンテンツとなった。

プロデューサーたちにとっては当たり前すぎるためなのか、意外とアイマスゲームデザインの観点から語られることは少ないように思う。ということで今回はアイマスというゲーム体験がアイドルたちへのを生み出すメカニズムについて考えてみたい。アーケード、コンシューマ、そしてモバイル、スマホへとプラットフォームが移り変わる中で、それぞれの特性を存分に活用した仕掛けがプロデューサーたちの心を捉えてきた。

アーケードのアイマス~失敗から始まる物語

アイマスは最初「アイドルを育ててオーディションで戦う対戦ゲーム」としてアーケードから出発した。2005年のことである。その後コンシューマで発売されたXbox360アイドルマスター』とPSPアイドルマスターSP』も、ほぼ同じシステムとなっている。自分が遊んだのがコンシューマ版だけなので、以下そちらも混ざった内容になっているが容赦いただきたい。

プレイヤーはアイドル事務所「765プロダクション」のプロデューサーとして、所属のアイドルから一人~三人を選んでユニットを組み、決められた期間内でトップアイドルにすることを目指す。営業という名のコミュニケーションイベントを成功させて絆を深め、レッスンという名のミニゲームで能力を上げる。そしてオーディションという名のバトルに挑む。手塩にかけたアイドルがオーディションを勝ち抜けなければ、ファンの大幅増を狙えるライブステージは披露できない。ファン数が思うように伸びなければプロデュースは失敗となり、引退のバッドエンドが待っている。

ミニゲームやオーディションは操作こそシンプルだが内容に癖があり、上手くこなすにはコツや慣れが必要だ。この一つ一つに特筆すべき面白みがあるわけではない。ここで重要なのは、そのどれもが初めて遊ぶ際には難しく感じられること、そしてアイマスが優れたキャラクター性を持ったゲームであることだ。

プロデュースに失敗するとき、アイドルたちは様々な反応を見せる。目に見えてがっかりする子、他の道を探しますとあっさり去っていく子、悔しそうな様子を見せる子など。こういった生々しい反応が、数多のプロデューサーの心に火をつけた。「次こそは絶対にこの子をトップアイドルにしてやる」という多くの誓いが立てられたのだ。

www.nicovideo.jp *1

ゲームの中のアイドルがバッドエンドを迎えることは、下手をするとゲームの中のプレイヤーキャラがそうなるよりも悔しい。例えばこれが、「自分がアイドルになってトップを目指すゲーム」だったならここまで強烈な印象を残すことはなかっただろう。「しょせん自分の才能はこんなものだった」と言われることが、「お前のせいだ」と責められるよりも堪えるのは何故だろうか。

対人に限らず、コンシューマ版などでCPUを相手にする場合でもオーディションの難易度はなかなかの高さに設定されており、初見ではまずトップアイドルにはなれない。だがそれでよいのだ。「最初にプロデュースに失敗するところからアイマスは始まる」のだと、歴戦のプロデューサーはよく言う。「最初にひどく失敗した人ほどハマる」とも。

コンシューマのアイマス~妥協なしのステージシーン

アイマスというゲームを語る上でもう一つ、欠かせない要素がある。オーディションに勝利すると見られるステージシーンの圧倒的なクオリティの高さである。

ビジュアル面では何より、革命的に可愛い3Dキャラクターのダンス。特にXbox360版におけるライブシーンは、以後軽く10年間ほどは他の追随を許さず、「3Dモデルは多彩な表現と引き換えに可愛さを妥協するもの」というそれまでの常識を粉々に破壊した。全然可愛い。いやむしろ、こっちの方が可愛いまである。

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2007年の発売なんですよこれ。触れたらやわらかそうな質感と、拙さやあどけなさまで感じさせる生き生きした動きは、2023年の今見てもなんだかプレシャスだ。この過剰なほどのこだわりはご褒美としてのモチベーション以上に、「トップアイドルになるべき女の子」というゲーム全体の動機に説得力を与えた。

もう一つ、個人的にポイントだと思うのは、ゲーム中でアイドルが2Dイラストで表示されることはなく、コミュニケーションシーンでもステージシーンと共通の3Dモデルを使っていたことだ。事務所や舞台裏で語りかけてくるアイドルと、ステージの上で歌って踊るアイドルが同一の存在であることが、見た目の点でも完全に保証されていた。このことで彼女たちの実在感はグッと増している。遊んでいて醒めてしまう瞬間がないのだ。

そして忘れてはならないのが楽曲。シビアな競争が繰り広げられる中でアイドルによって歌われるのは、「絶対にトップアイドルになるぞ!」「夢を叶えるぞ!」という底抜けに前向きで、力強い歌だ(そうでないのもあるが、多くはそうだ)。代表例がこの『GO MY WAY!!』。

未来は誰にも見えないモノ
だから誰もが夢を見てる
どんな地図にも載ってないけど
どんな時代〈とき〉でも叶えてきたよ

歌によってアイドルたちは夢を描く。その「夢」は何度も何度も打ち砕かれることになるが、プロデューサーが諦めない限り、あなたのアイドルは最終的にはトップアイドルになることができるだろう。そのときプロデューサーは、「夢は叶う」と歌い続けた彼女たちが本当に夢を叶えた姿を目撃することになる。「何度失敗しても、一緒に夢を叶えていく物語」を彩るのに、これ以上ぴったりの楽曲があるだろうか。

ソーシャルゲームアイマス~アイドル総選挙のゲーム化

さて、アーケードで生まれ、コンシューマで成功を収めたアイマス。続編『アイマス2』が賛否両論を呼んでファンコミュニティが真っ二つに割れたり、アニメ『アイドルマスター』が誰も予想しなかった名作ぶりでそれを修復したりとプロジェクト全体が大きく変化していく中、思ってもみない場所から花を咲かせたのが、2011年にモバゲーでリリースされた『シンデレラガールズ(以下、デレマス)』だ。

この頃ちょうどリアルのアイドル界では、某大物プロデューサーの手がける総選挙制アイドルグループが台頭していた。デレマスはこれにインスパイアされたシステムを採用。百人近い所属アイドルの中から投票上位にランクインした「シンデレラガール」には、新曲の歌唱メンバーとしての採用や、ボイスが付くという特典が与えられた。

数枚のイラストと少しばかりのセリフしかない、有象無象の(失礼)アイドルの一人である自分の担当が選挙で上位に入り、曲や声を得る――そんな「シンデレラストーリー」を夢見て、ゲームの内外を舞台に熱心なプロデュース活動が繰り広げられることとなったのである。

このシステムの中では、人数が多いことの帰結として、当初はとにかく派手な個性を持ったアイドルが持て囃されがちであった。『S(mile)ING!』は、デレマスのセンターポジションでありながら、当初は周囲の尖りまくりな個性に埋もれていたアイドル、島村卯月の念願のソロ曲である。

今はまだ 真っ白だけど
見てほしい 知ってほしい みんなに

少数精鋭にみっちり作りこまれたキャラクターではなく、隙間だらけの真っ白な存在だからこそ、プロデューサーが魅力を見つけだし、「魔法をかけて」あげることができる。デレマスにおけるシンデレラストーリーを体現するような物語を得たことで、逆に彼女のセンター性は不動のものとなったのだった。

モバイルゲームという制約の中で必然だった「シンプルなカードバトル」と「キャラクターガチャ」というシステムに、アイドルとオーディションバトルというモチーフを当てはめることで、アイドルプロデュースという遊びを成立させた――これは「アイマスソーシャルゲーム化」という命題に対する十全な回答であると同時に、ソーシャルゲーム史に残る大発明でもあったと思う。こうしてデレマスは当初の予想を裏切って大ヒットを飛ばし、今日まで続く美少女ガチャゲーの基盤を築いたのだった。*2

適正価格か足元見てるか?~「アイマス商法」の是非

この項は少し余談だが、ガチャの話ついでに触れておく。アイマスは上記のような体験へのコミットの度合いに応じて、割と高めの「対価」を要求してくる。「趣味はゲーム」ではなくもはや「趣味はアイマス」だと捉えている……とまで言う人もいるとかいないとか。

ソーシャルゲームのガチャ課金は言わずもがな*3アイマスはガチャの登場以前からそうだった。アーケードの厳しいバトルの沙汰も金次第であるし、コンシューマでは衣装や楽曲のDLCが多数配信され、全て買えば余裕でゲーム本体を超えるような金額に達する。この土壌があったからこそ、黎明期にはゲーマーから鼻白まれていたガチャ商売を、既存のゲームシリーズとしてはいち早く取り入れることができたとも言えるだろう。

長らく「アイマス商法」と揶揄され、しばしば批判の対象にもなるこの値付けだが、個人的な意見を言わせてもらえばこれは間違っていないと思う。

コンテンツにも持続可能性というものがある。安売りすればその場では喜ばれるかもしれないが、持続できずにそれっきりになってしまう可能性が高い。それはクリエイターとファンの双方にとって本当に幸せなことだろうか?

アイマスは良いものを作り、それに胸を張って強気の値段を付けていく戦略を取った。そして実際、十七年間生き延びてきた。飲食や服飾の世界ではブランディングと共によく行われていることだが、これをやれてるコンテンツはまだまだ少数なのが現状ではないだろうか。

もちろん高額を払わなければ楽しめないということもなく、それこそネットでファンメイド作品を見るだけなら無料だし、自分などはたまにゲームやCDを買うくらいでかなり安く楽しんでいる方だと思う。裾野の広さも一つ上手いポイントなのだろう。

2023年のアイドルマスター~全ての頑張る人への応援歌

自分がアイマスを初めて遊んだのは十年以上前、春香さんと同じ17歳のときだった。といっても彼女たちのようにキラキラした青春を送ってはおらず、かなり先行きの暗い高校生だったわけだが、そんな自分にはアイマスはあまりにも眩しすぎた――もちろん良い意味で。

あのひたすらに前向きなエネルギーには、ぬかるんだ足元ばかりを見ていた視線を遠くに向けさせる力があった。アイドル達の物語はフィクションではあるけれど、力強い夢を堂々と描き、そこに情熱を注いだ人たちが確かに居るという事実は一つの希望になった。

アイマスは全ての頑張る人への応援歌なのだ、という確信は、その時から変わらない。そしてニッチな美少女ゲームだったあのときよりも、今の方がより多くの人に届いているはずだとも思う。そう、アイマスは大きく、広くなった。いつの間にやら初期の頃のいかがわしさなど感じさせないような、万人向けのコンテンツになっていた。

youtu.be

現在、アイマスは最初の舞台である765プロダクションから派生して、主に5ブランドでの展開を行っている。ソーシャルゲームを出発点として、100人以上の超個性的なアイドルがひしめくシンデレラガールズ。アニメ版の流れを汲み、765のオリジナルメンバーを含む50人が活動する、妹分的存在のミリオンライブアイマス2に登場したライバルユニット・ジュピターをはじめとする"訳あり"なメンズアイドルたちの再出発を描くSideM。ユニットを主軸に展開を行い、アイドル同士のエモーショナルな関係性にフォーカスしたシャイニーカラーズ

idolmaster-official.jp

先日SideMのスマホゲーム『GROWING STARS』のサービス終了が発表された際には、「これでSideMブランドのゲームが一つもなくなってしまう」と嘆く声が見られた。やはりアイマスの軸はゲームでないと駄目だ、というプロデューサーの思いは、ブランドを問わず強いと思われる。

アニメ化以降のアイマスは遊びやすさを重視してか、分かりやすいシステムかつ明確なプロデュース失敗がないようなゲームシステムが主流になっている。それにより間口が広がった側面も大いにあるのだが、どうにも物足りなさは否めない。崖から突き落とすような挫折と眩しいライブシーンが強烈なコントラストを描く「失敗ありき」の体験には、やはり強い引力があると思うからだ。

現行のゲームの中でもっとも初期の形に近いシステムなのは、ブラウザゲームとしてサービスしている『シャイニーカラーズ』だろう。

これにはプロデュースモードが存在する。チュートリアルミッションの流れは、明らかに「最初にある程度失敗させること」を意図してもいる。だが、こちらは育成終了したアイドルを編成してフェスで戦うというもう一つのメインシステムの都合上、ゲームのテンポが速い。そのためか、無印ではご褒美として位置づけられていたライブシーンはかなり簡略化されたものになっている。

ライブシーンへの強いこだわりを受け継いでいるのが、モバイルからスマホに戦場を映してブイブイ言わせている、シンデレラの『スターライトステージ』やミリオンの『シアターデイズ』といったリズムゲーム勢だ。

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ステージというよりMV(ミュージックビデオ)的な演出が施されたものも多く、運営が続く中で新しい演出手法を取り入れて進化しているのが感じられる。

どちらも正しくアイマスの後継者ではある。だが、やはり光と影は一つでなければならないのではないだろうか。

近年ではインディーゲームの隆盛やストーリーのナラティブを重視する風潮により、極端なコンセプトを持って感情に訴えかけるようなゲームが評価される土壌が急速に整ってきている。「ゲームに翻弄されるような」体験を求める人は確実に増えており、初代アイマスのような体験はそういったゲーマーたちの心を少なからず掴むだろう。美少女ゲームを超えたアイマスは、アイドルゲームを超えて、心を動かすゲーム体験として広く受け入れられる可能性を持っていると思う。

欲を言えばそういう尖ったアイマスの新作がほしいところなのだが、とりあえずXbox360版(箱マス)のPC移植あたりはそろそろあってもいいんじゃないかと――例えばゲーパス入りしてXboxとの蜜月を再開なんかしたら話題になりそうだけど、どうでしょう?

 

〜おまけ〜

ここまで長々書いておいて自分の担当について一言も書かないのは嘘だと思うので、最後に入れておきますね。

765の担当は菊地真。持ち前の王子様ルックスを活かしたカッコいいアイドルを演じる一方で、本当は誰よりカワイイものに憧れてる女の子。ギャップが魅力のアイドルなのだが、実のところ彼女の一番の魅力は、明るく前向きで、仕事に真面目で、常識人で、さっぱりしていて、爽やかで……という何というかフツーの、自然体な素顔にあると思う。プロデューサーには自明な魅力がなかなか伝わらないところをもどかしく思わされる。十年くらいずっと思わされている。

ミリオンの七尾百合子にはほぼ一目惚れと言っても良かった。「文学少女って要するにクラシックなタイプのオタクだよね」という真理を見事に撃ち抜いていて、彼女は単に夢見がちで大人しい女の子ではなく、本の中の世界すなわちフィクションを愛しているという自負を持つ誇り高きオタク(かぜのせんし)なのだ。「こちら側の人間」で、だからこそアイドル活動の中で様々な世界に飛び込めることを誰より楽しんでいる。そしてこれで美人タイプなのもちょっとずるい。

シャニマスの黛冬優子の物語にはちょっと驚いた。素のままの勝気でひねた性格では「愛されない」ことを分かっているから、「愛される」少女を演じようとする。だが、被っていただけだったはずのアイドルの仮面がいつしか自分の一部になっていく……。他人からの評価を常に気にせざるを得ない現代病と、演じることが自意識を侵食していくみたいな部分とか、二面性が否定的にならずに描かれているんですよね。

シンデレラとSideMはアニメとコミュニティを横目で見てただけなので、担当とまで言えるアイドルは居ないのだった。すまない。精進します。

*1:今回の記事では公式ではないユーザーからアップロードされた動画へのリンクを多数貼っている。基本的にはあまりよろしくないのだが、アイマスに限っては公式が切り出しアップロードや改変を含むファン活動を黙認してきた歴史的経緯から許してほしい所存です

*2:厳密に美少女ガチャゲーの始祖ではないかもしれないが、DeNA協賛企画 日本モバイルゲーム産業史 目次&年表 を見る限りでは火付け役であることは間違いないと思う

*3:これに関しては他のゲームもそう変わらぬ相場だが