束子ダイナミック

変なゲームと優しい物語が好きなブログ

例えばメタバースが『サガ フロンティア』のような世界だったなら

結局、メタバースってのは何なんだ

 メタバースってのは未だ定義のはっきりしないものらしい。バーチャルリアリティブロックチェーン技術。景気の良いワードと共に喧伝され始めてからもうずいぶん経つのに、その実態は雲を掴むようだ。

 Web3.0=インターネットの「次」になるものだとかも言われているらしいが、見た目が変わるだけで何かが変わるとも思えない。正直なところ、胡散臭いとも思う。

 とはいえ、ビデオゲームと遠からぬ領域にあるものなので、動向は少し気になるところもある。興味深い記事があったので、

kai-you.net

この中から一冊見繕って読んでみた。

アフィリエイトリンクなので気にする人は注意

 メタバースで身体性から解放されることを望みつつも、アバターによる存在感というある種の身体性を求めるような話には「それなら現実でよくない?」とも思ってしまったんだけど、インターネットと同じく物理的距離を超えられるという点での優位性は確かにある。

 ここにはメタバースの要件として「中央集権的でなく公共性のあるもの」だと書かれていた。つまり、MMORPGのように特定の運営母体がコンテンツ供給を握っているものはメタバースではない、という定義だ。なるほど。*1

 中央集権的ではなく世界が連なり、物理的境界を超えて人々が集まり、そこに何かが生まれる世界。そんな世界を考えてみたとき、一つのゲームが思い浮かぶ。『フォートナイト』でも『Roblox』でもない。それは『サガ フロンティア(以下サガフロ)』だ。

サガフロンティアとはどんなゲームか

 サガフロは1997年にプレイステーションで発売された。「リージョン」と呼ばれる個性的な小世界が連なる世界「リージョン界」を舞台にしたフリーシナリオRPGだ。「メタバース」の語の初出が1992年らしいので、それから五年後。2021年には主要な現行プラットフォームでリマスター版も発売されている。

 サガフロメタバースに通ずる点として「無数の小世界が連なって一つの世界を形成している」ところはまずあるだろう。物理的な繋がりに囚われることなく、小世界同士を(ある程度)無軌道に行き来することができるのも同じだ。

 サガフロの世界を構成するリージョンは文化も技術レベルも実に様々で、近代的な摩天楼の都市があれば、まじないを主産業とするメルヘンチックな村もあり、壮麗な城塞があれば、鉄くずだらけの街もある。中には空間が崩壊しているような世界もある。

 そんな混沌とした世界観の中で描かれるのは、八人*2の主人公の冒険だ。それぞれの主人公のシナリオは完全に独立しており、ヒーロー譚、冒険譚、ダークファンタジーにSFに刑事ドラマ――といった具合でジャンルも語り口もバラバラ。本当に同じ一つのゲームなのかと困惑するくらいだ。

youtu.be

 だが、リージョン界はそれらのストーリーを全て包容する。生い立ちも事情も目的もまったく異なる主人公たちの目を通した冒険を繰り返すことで、リージョン界という世界の輪郭が少しずつ明瞭になる……あるいは突然、前とは違った形に見えてきたりする構造になっている。

 多様なリージョンと、多様な主人公。サガフロの特異なところは、完全シングルプレイ用のRPGでありながら、このような構造のために、この世界に生きる「他者の存在」をしばしば意識させられることにある。そうさせるのは、この世界の全てが自分――つまり今操作している主人公のために用意されたものではない、という事実の積み重ねだ。

 選んだ主人公と冒険の中の選択によって、リージョン界は驚くほど違った顔を見せる。ある主人公にとっては街中のモブだった人物も、他の主人公にとっては重要人物だったりする。頼れる仲間として最後まで共に戦ったキャラクターも、実はその旅では明かされなかった物語を秘めていることがある。意味も分からず通り過ぎたあの場所は、誰かにとっての約束の地かもしれないのだ。

 そういう体験を重ねる中で、この世界の主人公はこの八人だけではなく、きっと無数にいて、そのそれぞれに物語があるのだと感じることだろう。だからこそ、「ここには一つの世界がある」のだと錯覚を抱くことすらできる。その瞬間、プレイヤーもまた九人目の主人公として、世界を自分自身の目線で見ていたことに気付く――これが、サガフロというゲームがもたらす一つの体験だ。

バラバラになったインターネット

 ところでインターネット、最近どうですか。どうですかと言われても困るだろうが、個人的な感覚としては「世界が見えているつもりでいるのに、実はごく狭い範囲しか見えていない」ように感じている。人が増えたにもかかわらず――いや、増えたからこそなんだろうか。

 ゲームの評価ひとつ取ってもそうで、例えばサガフロと同じスクエニの『FF15』なんかは、そのゲーム体験を絶賛する人々がいる一方で、メインシナリオの薄い微妙ゲーだと評されることもある。プレイした身としてはどちらの主張にも道理はあると思うし、評価が割れること自体は別に以前からあるだろうが、気になるのは互いが互いの存在をあまり認識していないように見えることだ。神ゲー派がもはやすっかり再評価されたと思っていても、未だにがっかりゲーの代表格として語る人もいる。断絶である。

 SNSで、動画サイトで、あるいはGoogle検索で、いま私たちは出会うべくして出会っているのかもしれない。たとえ知らない他人でも、興味関心が似通っていて、なんとなくうまが合いそうな誰かと。やがてそこに一つの小世界が形成される。

 それは素敵なことでもあるのだが、その中が世界の全てだと思い込んでしまうような危険性もはらんでいることは、エコーチェンバーやフィルターバブルとかいった言葉で指摘されている通りだ。インターネットは確かに物理的距離を越えたが、その代償に異なる小世界同士は互いに手が届かないほどにバラバラになってしまっているとも言える。

 あまりに多すぎる情報量の中で、表出しないもの、目に入らないものは、いつしかその人の中で世界のどこにも存在しないのと同じになる。それで本当によいのだろうか?

 ……よくはないだろう。異なる小世界はもっと適当に繋がれるべきだ。リージョンシップが飛び回るように、気軽に行き来できるべきだ。そんで時々みんなでタンザーに飲み込まれてしまえばいい。いやそれはまずいか。

その「次」を目指すのであれば

 サガフロにはクーロンというリージョンがある。どの主人公を選んでも必ず訪れるような、リージョン界のハブ的な役割を持った場所だ。にもかかわらず、ここは安心安全なイメージとは程遠い、暗く雑然とした繁華街だ。

 そのまんま九龍城砦のイメージなのだろう。サイバーパンクシティめいた表通りから少し路地に入れば敵も出現するし、かと思えば、その辺を歩いている敵シンボルと同じ見た目の奴は意外と善良な市民だったりする。一見しただけでは何だか分からない、不気味なスポットも多い。

 そんな怪しげな街が、リージョン界の中心になっている理由――それは雑多な街だけが、あらゆる人間を受容するからではないだろうか。育ったリージョンも目的も異なる無数の主人公たちの誰もが混ざり込める空間。それは出会うはずのない人が出会える場所にもなり得る。メタバースに本当に必要とされるのは、こういった空間を作ることなのではないだろうか? VRの目に入る情報量が多い特性との相性も良さそうだ。

 それは先の記事で多くの著者がメタバースに思い描いているような「居心地の良い理想郷」ではないだろう。だが、居心地の良さを求めて断絶を今以上に加速させた先に、望むべき未来があるとはとても思えない。

 一方で、ハブから離れればそこには多様な小世界がある。多様さの中に、一人一人が心穏やかに過ごせる理想郷が見つけられる可能性もあるだろう。混沌と秩序、どちらも大事であるならば、その二つを上手に繋いでいくことはできないだろうか。

 世界には自分の理解を超えたものがあることを再認識し、その境界線に触れたとき。人は心の平穏と引き換えに失っていた新たな可能性――フロンティアを、取り戻すことができるのかもしれない。もしそんなWeb3.0なら、是非とも行ってみたいと思えるのだけど。

 

▼ゲーム情報

そんなこと考えなくてもサガフロは面白いゲームですが。

  • プラットフォーム
    • 原作:PS 
    • リマスター:PS4 / Switch / PC / スマホ
  • プレイ時間:シナリオ一つクリアまで10~20時間×8人
  • 定価(リマスター):4,800円(スマホ版は4,780円)

www.jp.square-enix.com

 

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*1:もちろん、別な定義もあるとは思う

*2:PS版は七人だが、リマスター版で一人増えているので本稿では八人とさせていただく